2015年05月09日

10年代に入ってから「草食系男子」の進化型として「草育系男子」だとか「植物系男子」「ガーデニング男子」だとか、植物を育てる男子をまとめて総称する単語がちらほら出始めた。それは誰かが故意に蒔いたものなのか、あるいは自然に芽吹いたものなのかは分からないが、まだ地にしっかりと根を張るまでには至っていないようにみえる。もっとも、上質な暮らしを求めるサードウェーブ系がボタニカルをその暮らしに取り入れていくのは時間の問題な気はするのだが。

遡ってみると、いとうせいこうが00年代に植物のある暮らしを提唱した本を出版している。庭のない都会のマンションでの暮らしを選び、小さなベランダで植物を育てる「ベランダー」のすすめだ。




植物を育てる男子が増殖している原因が、誰かが故意に蒔いた種だったとしたら、その種を蒔いたのは、いとうせいこうだったのではないか。であるならば、「草食系男子」進化型は「ボタニカル系男子」と呼ぶのが適切かもしれない。



一昨年に肺ガンが見つかり片方の肺を切除した父親。今年に入ってもう片方の肺に転移している可能性が出てきたという連絡を受けて、GWに帰省した。

バッグにヘッセの一冊を詰め込んで。




実家の庭には、じつに多くの植物が根付いている。100種まで数えてみたが、その時点でまだ庭のごく一部だったため、それ以上を数えるのを諦めた。

農林水産省に勤めた(現在は定年を迎えて退職した)父の庭はおもしろい。何がおもしろいかというと、園芸店には出回ることのない植物、具体的には山だけに自生する植物などが庭に平然と根付いているのだ。庭で育てることは出来ないとされる高山植物すらも、みずみずしいその姿を見せてくれる。まるでそこが生家であるかのように。ともすると傲慢ともとれる態度で。

多種多様な植物たちは、多種多様な虫たちをも誘う。たくさんの虫や蝶や蜂が、そして鳥たちまでもが庭に住み着いている。



岩手でホタルを鑑賞できるスポットはたくさんあるが、実家の地域ではまずお目にかかれない。少し足を伸ばせば見つけられなくもない場所とはいえ、子どもの頃(20年以上も前)と比べるとホタルの数は激減している。小学生の頃はホタルをたくさん捕まえて、蚊帳の中に放ってから布団へ潜り込み、ホタルの発光を星空に見立て、眠気を誘う光の明滅のリズムに身を委ねつつ眠りについた夏の日々。今ではそんな体験も難しく、もう水が昔よりもきれいではなくなってしまった現実に、少し寂しく思っていた。



昨年のことだ。

父が嬉しそうに言った。

「庭にホタルが来るようになったよ」

棲息条件の厳しいホタルが、うちの庭を選んで棲みついたという。僕はあの頃を懐かしみ、また息子にも同じ体験をしてもらおうと思い立ち、夏休みに帰省した。その晩、息子と一緒にホタルを数匹捕まえて、蚊帳の中に放ってから妻と息子と一緒に布団へ潜り込み、ホタルの発光を星空に見立て、光の明滅のリズムを共に楽しんだ。

息子は、あの頃の僕と同じように(そして恐らくは同じような眼差しだったのだろう)、ホタルの光に誘われて眠りについた。僕はそれを見届けたあと(そして恐らくは父がそうしていたように)ホタルを蚊帳から出して庭に還した。役目を果たしてくれてありがとう。不本意な役目を押し付けられたホタルは、その身に起こった天変地異に目を回したのか訝しげにその場を離れようとはしなかったものの、茂みの奥のほうから聞こえてくる蛙の鳴き声に安心したのか、その声のする方へと意を決して飛んでいった。

僕は息子に同じ体験をさせてあげられたことを大いに喜んだ。そして同時に、父がいかに偉大なことを成し遂げたのかを思い知った。

植物を育てるとは、たぶん、そういうことなのだ。
廻る地球の上で。季節が巡るように、父から子に。



10ケ月ぶりの家に着いて、庭をみる。
庭の草木花たちは元気そうだ。
つまり、まだ父は元気なのだ。

荷物を家の中に全ていれて、湯を沸かしてお世辞にも上質とは程遠いコーヒーを飲む。10ケ月振りに顔を見せた孫の成長ぶりを、父も母も満足そうに見つめている。その光景をこれまた満足そうに妻が眺めている。息子は家からわざわざ持ってきた自慢のおもちゃを見せびらかしている。

バッグから出掛けに放り込んだ一冊を取り出す。

庭に出る。庭岩に定着した苔は年月をかけゆっくりと領土を拡げつづけ、いまでは尻込みしてしまうほどの威厳を放っている。庭の湿度が一定に保たれているのだ。西日が強く差す東京の我が家では作り出せない景観だ。

庭石に腰掛け、本をひらく。
木漏れ日が一文を照らす。

そして本のなかに、答えをみつける。


庭仕事の愉しみ
ヘルマン ヘッセ
草思社
1996-06



人生における美しきワンシーンは、ふっと力を抜いた瞬間にそっと訪れる。時があれこれ洗い流してくれる。



父の庭からクジャクシダを1株もらって東京に連れて帰ることにした。園芸店でよく見かけるアジアンタムの別名なのだが、父の庭にあるクジャクシダは店に出回る種ではないようだ。葉形に野生的な力強さが宿っている。

父は駄温鉢にクジャクシダを植え替えて僕に渡してくれた。僕は父に聞いた。
「この鉢、ペンキでペイントして塗り替えてもいい?」
「見栄えが悪い鉢だけどクジャクシダにとっては一番適した環境だから塗ったらいけないよ」

見栄えばかりを気にして、その実なんにも見ちゃいなかったことに気がついて、思わずふっと笑ってしまった。

うん、別に悪くないじゃないか。

植物を育てる男子のことをなんて呼ぶのかも、もうどうでもいいことだ。

後部座席に妻と息子を乗せて、助手席にクジャクシダを乗せて僕はアクセルを踏んだ。

クジャクシダはこれからの環境に不安を覚えているかのように、ゆらゆらと葉を揺らした。

座頭魄市orejiru at 20:35│コメント(0)トラックバック(0) │ このエントリーをはてなブックマークに追加

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