2014年06月
2014年06月17日
佐世保小6同級生殺害事件は、国内で起こった殺害事件のなかでも、ネット上ではとりわけて有名な事件。
小学生が同級生をカッターで刺し殺した、というセンセーショナルな内容が世間を煽ったのですが、それ以上に関心が集まった理由として、もっとも大きなウェートをしめるのが
“加害少女が美少女だった” から。
「かわいいは、正義」とは11歳から16歳までの少女を題材にしたアニメ「苺ましまろ」のキャッチコピーですが、この事件の加害少女写真がネット上にアップされるやいなや、その可愛らしさから瞬く間に萌え絵化され、流行しました。まさに「かわいいは、正義」だといわんばかりに持ち上げられたんです。
しまいには加害少女のコスプレをする人まで登場する始末。
僕は当時、そんなネットの祭り事を冷ややかな目で見ながらも「なぜ11歳の少女は同級生を殺害したか」その動機をネット上で探して読みふけっていました。
けれど、センセーショナルな事件はその後も次々と発生し、いつの日からか現在に至るまでこの事件のことをすっかりと忘れてしまいました。
◆
あれから10年がたち、今年の3月に一冊の本が出版されました。
著者は被害少女の父親(毎日新聞社支局長)の部下。まだ駆け出し記者だった著者が、一番近くで見てきたこの事件のこと。新聞には書けなかった実話、渾身のノンフィクション。
この本のなかに、きっと僕が知りたかったことがあると思い、手に取ったんです。
◆
改めて事件の概要をまとめると、この事件は2004年6月1日、長崎県佐世保市の市立大久保小学校で、6年生の女児が同級生の女児にカッターナイフで首元を切り付け殺害した事件。
大久保小学校は各学年1クラスしかない小規模な学校で、6年生は38人でした。4時間目の国語の授業を終えるチャイムが鳴って、給食の準備に取りかかったのが12時15分。児童がバタバタと準備をし始め、学校全体の児童の動きも激しい時間帯。12時35分に配膳が終わり、「いただきます」の合図をしようとしたその時、2つの席が空席になっていることに担任は気がつきます。
空席に気がつくとほぼ同時に、廊下にたたずむ女児の姿が目に飛び込んできた。真っ赤に染まった女児の手にはカッターナイフが握りしめられていた。
担任は初め、女児が怪我をしていると思い駆け寄って無理やりカッターを取り上げました。激しく動揺しながらも傷口を探す担任に女児
「私の血じゃない。私じゃない」
少女がつぶやき、廊下の先を指さす。
そこは多目的教室「学習ルーム」でした。担任が全速力で駆けつけたその部屋には、うつぶせに倒れて動かない被害少女の姿がありました。
学校中がパニックの中、駆けつけた消防隊員が状況を訊ねるも誰も説明できない状態でした。そこで思い出したように担任が「一人だけいます」と隊員に伝え、先ほどカッターナイフを握っていた女児を連れてきます。隊員が「あの子がどうしてけがをしたのか教えて」と訊ねると「私がカッターで切りました」とあっさり。
それから少女は聞かれるままに「死ぬまで待って教室に戻った」「千枚通しで刺すか、首を絞めるか迷ったけれども、もっと確実なカッターナイフにした」「左手で目隠しをして切った」など供述したのです。
◆
この事件は11歳の殺害事件。つまり少年法が適用されない事件でした。少年法は20歳未満の非行少年(少女)に適用されますが、14歳未満の場合、「触法少年」と呼ばれ「児童福祉法」が優先されます。
少年法の場合は、将来の犯罪を防ぎ、少年の福祉を図ると同時に、社会秩序の維持も目的にされています。しかし児童福祉法では犯した罪そのものを問えません。人を殺したとしても、「被害者」とみなします。社会の網の目からこぼれ落ちてしまった「被害者」なんです。
14歳以上であれば、警察は警察権を行使することができます。つまり取り調べが可能なんです。ですが、14歳未満の「被害者」には取り調べが出来ません。
「きみはなぜあの子を殺したんだ?」
その質問が、少女の心を傷つける可能性がある以上、ぶつけてはいけないんです。
◆
著者は、被害少女の父親の苦悩をいちばん傍でみていました。本書はその記録です。そして、加害少女の父親を訪ね、加害少女の父親の苦悩も知ります。本書はその記録です。
僕は本書で「なぜ11歳の少女は同級生を殺害したか」を知ることが出来ると思っていました。ですが、「なぜ?」はますます遠ざかってしまいました。
◆
戦後、日本は少年犯罪の「原因」を「社会」に求めていました。社会全体が貧しく、無秩序な社会こそが「原因」と考えられていました。少年犯罪のピークもこの頃です。
それから経済が復興し、中流化が進むにつれ、「原因」は「社会」から「学校」そして「家族」と移り変わっていきました。「3年B組金八先生」が時代を象徴しています。
それから90年代に入ると、現在も通念とされている、「原因」は「個人」の時代となります。この頃から「発達障害」という概念を犯罪の下敷きにするようになりました。
例に洩れず、佐世保小6同級生殺害事件の「原因」は「発達障害」と結論づけられています。
◆
僕は、どうもこの「原因」は「発達障害」とする風潮というか、時代の流れみたいなものに疑問を感じてしまうんです。もちろん全面的に否定しているわけではなくて、少なくとも「この事件において」は、ほんとうに加害少女は「発達障害」だったのだろうかと疑問に感じました。「障害」ではなくて、発達の途中じゃないかと。いろいろがあって心が育まれて大人になるじゃん、僕もそうだったし、みんなそうだったじゃん、って。
僕にはどこにでもいる女の子にしか映りません。
真っ先に考えられる家庭環境が悪かったのではないかという疑問も、どこにでもいる家族にしか映りませんでした。ただ、11歳の女の子に専用のパソコンを買い与えておいて、娘がどのようにパソコンを使っているか一切チェックしなかったという点が、残念でなりません。
やさしい、父親なんですよ。それだけになんだかやるせない気持ちでいっぱいになりました。
でも詳しいことは分からないんですよね。12歳未満の児童が犯罪を犯した場合、児童自立支援施設に預けられ社会から完全に隔離されますから。一切の情報が出てこない。どのように心を育んでいくのか。全てブラックボックスの中なんですよ。
誰でも経験のある、友達同士の小競り合いだったのに。
◆
決して「楽しめる」読書でありません。
ですが、僕自身が小学生の子どもを育てている親であり、これから先ますます複雑になっていく子どもの「こころ」と向き合っていかなければいけません。僕は親としてどうやって見守っていくべきかを、よく考えさせられました。
親御さんたちに手にとってもらいたい一冊でした。
小学生が同級生をカッターで刺し殺した、というセンセーショナルな内容が世間を煽ったのですが、それ以上に関心が集まった理由として、もっとも大きなウェートをしめるのが
“加害少女が美少女だった” から。
「かわいいは、正義」とは11歳から16歳までの少女を題材にしたアニメ「苺ましまろ」のキャッチコピーですが、この事件の加害少女写真がネット上にアップされるやいなや、その可愛らしさから瞬く間に萌え絵化され、流行しました。まさに「かわいいは、正義」だといわんばかりに持ち上げられたんです。
しまいには加害少女のコスプレをする人まで登場する始末。
僕は当時、そんなネットの祭り事を冷ややかな目で見ながらも「なぜ11歳の少女は同級生を殺害したか」その動機をネット上で探して読みふけっていました。
けれど、センセーショナルな事件はその後も次々と発生し、いつの日からか現在に至るまでこの事件のことをすっかりと忘れてしまいました。
◆
あれから10年がたち、今年の3月に一冊の本が出版されました。
著者は被害少女の父親(毎日新聞社支局長)の部下。まだ駆け出し記者だった著者が、一番近くで見てきたこの事件のこと。新聞には書けなかった実話、渾身のノンフィクション。
この本のなかに、きっと僕が知りたかったことがあると思い、手に取ったんです。
◆
改めて事件の概要をまとめると、この事件は2004年6月1日、長崎県佐世保市の市立大久保小学校で、6年生の女児が同級生の女児にカッターナイフで首元を切り付け殺害した事件。
大久保小学校は各学年1クラスしかない小規模な学校で、6年生は38人でした。4時間目の国語の授業を終えるチャイムが鳴って、給食の準備に取りかかったのが12時15分。児童がバタバタと準備をし始め、学校全体の児童の動きも激しい時間帯。12時35分に配膳が終わり、「いただきます」の合図をしようとしたその時、2つの席が空席になっていることに担任は気がつきます。
空席に気がつくとほぼ同時に、廊下にたたずむ女児の姿が目に飛び込んできた。真っ赤に染まった女児の手にはカッターナイフが握りしめられていた。
担任は初め、女児が怪我をしていると思い駆け寄って無理やりカッターを取り上げました。激しく動揺しながらも傷口を探す担任に女児
「私の血じゃない。私じゃない」
少女がつぶやき、廊下の先を指さす。
そこは多目的教室「学習ルーム」でした。担任が全速力で駆けつけたその部屋には、うつぶせに倒れて動かない被害少女の姿がありました。
学校中がパニックの中、駆けつけた消防隊員が状況を訊ねるも誰も説明できない状態でした。そこで思い出したように担任が「一人だけいます」と隊員に伝え、先ほどカッターナイフを握っていた女児を連れてきます。隊員が「あの子がどうしてけがをしたのか教えて」と訊ねると「私がカッターで切りました」とあっさり。
それから少女は聞かれるままに「死ぬまで待って教室に戻った」「千枚通しで刺すか、首を絞めるか迷ったけれども、もっと確実なカッターナイフにした」「左手で目隠しをして切った」など供述したのです。
◆
この事件は11歳の殺害事件。つまり少年法が適用されない事件でした。少年法は20歳未満の非行少年(少女)に適用されますが、14歳未満の場合、「触法少年」と呼ばれ「児童福祉法」が優先されます。
少年法の場合は、将来の犯罪を防ぎ、少年の福祉を図ると同時に、社会秩序の維持も目的にされています。しかし児童福祉法では犯した罪そのものを問えません。人を殺したとしても、「被害者」とみなします。社会の網の目からこぼれ落ちてしまった「被害者」なんです。
14歳以上であれば、警察は警察権を行使することができます。つまり取り調べが可能なんです。ですが、14歳未満の「被害者」には取り調べが出来ません。
「きみはなぜあの子を殺したんだ?」
その質問が、少女の心を傷つける可能性がある以上、ぶつけてはいけないんです。
◆
著者は、被害少女の父親の苦悩をいちばん傍でみていました。本書はその記録です。そして、加害少女の父親を訪ね、加害少女の父親の苦悩も知ります。本書はその記録です。
僕は本書で「なぜ11歳の少女は同級生を殺害したか」を知ることが出来ると思っていました。ですが、「なぜ?」はますます遠ざかってしまいました。
◆
戦後、日本は少年犯罪の「原因」を「社会」に求めていました。社会全体が貧しく、無秩序な社会こそが「原因」と考えられていました。少年犯罪のピークもこの頃です。
それから経済が復興し、中流化が進むにつれ、「原因」は「社会」から「学校」そして「家族」と移り変わっていきました。「3年B組金八先生」が時代を象徴しています。
それから90年代に入ると、現在も通念とされている、「原因」は「個人」の時代となります。この頃から「発達障害」という概念を犯罪の下敷きにするようになりました。
例に洩れず、佐世保小6同級生殺害事件の「原因」は「発達障害」と結論づけられています。
◆
僕は、どうもこの「原因」は「発達障害」とする風潮というか、時代の流れみたいなものに疑問を感じてしまうんです。もちろん全面的に否定しているわけではなくて、少なくとも「この事件において」は、ほんとうに加害少女は「発達障害」だったのだろうかと疑問に感じました。「障害」ではなくて、発達の途中じゃないかと。いろいろがあって心が育まれて大人になるじゃん、僕もそうだったし、みんなそうだったじゃん、って。
僕にはどこにでもいる女の子にしか映りません。
真っ先に考えられる家庭環境が悪かったのではないかという疑問も、どこにでもいる家族にしか映りませんでした。ただ、11歳の女の子に専用のパソコンを買い与えておいて、娘がどのようにパソコンを使っているか一切チェックしなかったという点が、残念でなりません。
やさしい、父親なんですよ。それだけになんだかやるせない気持ちでいっぱいになりました。
でも詳しいことは分からないんですよね。12歳未満の児童が犯罪を犯した場合、児童自立支援施設に預けられ社会から完全に隔離されますから。一切の情報が出てこない。どのように心を育んでいくのか。全てブラックボックスの中なんですよ。
誰でも経験のある、友達同士の小競り合いだったのに。
◆
決して「楽しめる」読書でありません。
ですが、僕自身が小学生の子どもを育てている親であり、これから先ますます複雑になっていく子どもの「こころ」と向き合っていかなければいけません。僕は親としてどうやって見守っていくべきかを、よく考えさせられました。
親御さんたちに手にとってもらいたい一冊でした。
2014年06月12日
「海街diary」実写映画化決定!是枝裕和監督が念願かなってメガホン
http://eiga.com/news/20140527/10/
オリジナル作品に強いこだわりを持つ是枝監督だが、「原作モノの映画化に心動き、心躍ることは少ないのですが、この作品は一巻を手にした瞬間からどうしても自分の手で映画にしたいと思い続けていた」という。
僕は松本大洋のマンガ「sunny」が大好きなんですが、「sunny」を読むたびに「このマンガを是枝監督が実写化してくれたら最高なのになあ」と考えていたんです。
「海街diary」実写映画化決定のニュースを読んで、さっそく「海街diary」を読んでみました。
kindle版もあります。
僕の好み、ど真ん中でした。
このマンガ、読後感が「sunny」によく似てます。むしろ「海街diary」の方が是枝監督らしさが出る物語といえます。
いや、もっといえば
「歩いても 歩いても」×「奇跡」=「海街diary」
くらいの相性の良さを感じます。
是枝監督の集大成、最高傑作が生まれるんじゃないか。
それくらい期待していい。
「海街diary」は鎌倉に暮らす姉妹のおはなし。三姉妹の長女は「さち」29歳、看護士。次女は「よしの」22歳、信用金庫のOL。三女は「ちか」19歳、スポーツ用品店勤務。
両親は15年前に離婚。父親の借金と女関係で。その2年後に今度は母親が再婚するという理由で家を出て行く。三姉妹は祖母の家に預けられる。
その祖母も亡くなってしまい、祖母の家で三姉妹だけで暮らしている。
物語は、その15年も会っていなかった父親の訃報が届くところからはじまります。三姉妹はぶーぶー言いながらも葬式に行くんですが、そこでこの物語の(さしあたっての)主人公「浅野すず」と出会います。
ちょっと人間関係が複雑なんですが、「すず」は父親が15年前に出て行ったときの不倫相手との子どもで、三姉妹にとっては「異母妹」です。その後「すず」の母親は亡くなってしまいました。
それから父親はまだ小さな子どもを2人抱えた「陽子」と再々婚をしたんです。それから僅か1年で父親はがんで亡くなってしまったんです。
三姉妹の到着を迎えにきたのは「すず」でした。「陽子」はショックのあまり体調を崩してしまっているし、幼い2人の義弟たちは状況を把握できる年じゃないし。13歳とは思えないほどしっかりした対応、そして涙も見せず参列者の対応をこなす「すず」。
「陽子」が悲しみにくれてるうちにも出棺の時を迎えます。喪主のあいさつを催促された「陽子」は今はとてもあいさつ出来る状態にないと訴えます。そこで彼女はこう言うんです。
「そうだわ。すずちゃんどうかしら。なんたって実の娘だし。しっかりしてるし。」
このことばに対し、長女「さち」は「陽子」に失礼を承知で口を挟むんです。
「おとなのするべきことを子どもに肩代わりさせてはいけないと思います。私の勤務している病院の小児病棟にはいわゆる難病といわれている子が大勢います。そういう子は例外なくいい子でしっかりしてます。なぜだかわかりますか?」
「厳しい闘病が彼らが子どもでいることを許さないからです。」
「海街diary」に登場する子どもたちは、「子どもであることを奪われた子ども」ばかりが登場します。三姉妹も年齢としては大人の仲間入りをしていますが、かつて子どもであることを奪われた子たちなんです。
葬式も無事に終了し、「さち」は「陽子」に謝ります。
「さっきはごめんなさい。私は看護師ですからガン患者のご家族の苦労がどんなものかよく知っています。小さなお子さんをかかえてご苦労なさったでしょう。父を看取ってくださってありがとうございました。」
駅に向かう帰り道に「さち」はホンネを吐露するんです。ああいうタイプは病人と向き合えるわけがないと。
「いるのよねーときどき。現実が受け入れられなくて尻込みしちゃう家族が。弱っていく家族の姿を見たくないのかもしれないけど、着替えを届けて10分足らずでさっと帰ってしまう。それでも本人は精一杯看病しているつもりなのよ。その意味ではウソはないの。それが限界なの。」
三姉妹を追いかけてきた「すず」に「さち」はこの町であなたが一番好きな場所に連れていってほしいと頼みます。そこは町が見渡せる場所。その風景が鎌倉によく似ているんです。
「お父さんもこの場所がとても好きだったんです。」
そのことばを聞いて「さち」は「すず」の気持ちを汲むんです。
「大変だったでしょう。ありがとうね。あなたがお父さんのお世話してくれたんでしょう?ほんとにありがとう」
ずっと涙を流さずに“しっかり”と振る舞っていた「すず」は蝉の声をかき消すくらい激しく泣き崩れるんです。
やってきた電車に乗り込んで、ドアが閉まるその直前、「さち」は「すず」に言います。
「鎌倉にこない?」
「あたしたちといっしょに暮らさない?」
四姉妹の鎌倉生活のはじまりです。
このあとの四姉妹の日常も、1話目にも増して心臓をぎゅっと掴む話が続くんですが、それでも四姉妹は明るくてキラキラ輝いてるんですよ。大人たちの身勝手な事情に巻き込まれながらも、力強く成長していく子どもたちの姿に涙腺崩壊です。
是枝監督の「歩いても 歩いても」では日本の台所をとても丁寧に撮影されていました。小津安二郎を彷彿させるんですよね。マンガ「海町diary」でも台所・食卓の描写がスゴくいいんですよ。きっと是枝監督はこれまで以上に食卓シーンに力を入れてくるだろうと、僕はとても楽しみにしてます。
小津安二郎が愛した鎌倉が舞台。小津安二郎が眠る鎌倉が舞台。是枝監督も意識はしてるでしょう。
楽しみです!
映画「海街diary」のエンディングはクラムボンの「tiny pride」が合うと思うんですが。是枝監督、どうっすかね。
2014年06月09日
なんだこの国は…。
著者の高野秀行による真っ赤なウソ、アヘンにやられてしまった彼の「幻覚小説」なんじゃないかと疑わざるをえない内容に、頭がクラクラしつつもこれだけは書いておかないといけない。
「クソおもしろかったぞ!」
高野秀行といえば伝説の名著「アヘン王国潜入記」があります。自らアヘン栽培のメッカ「ミャンマー北部」に潜入し、地元民と共に種蒔きから収穫まで手伝い、アヘンに手を出し中毒になった男です。
愛すべき「バカ」でしょ。
今回の新作ではアヘンではないものの、やはり現地では有名な覚醒植物「カート」にはまって中毒になるという期待を裏切らない展開を見せてくれます。
ただ、そこはいわば昔からの読者に対してのファンサービスみたいなもので、そこの土地は「カート」がメッカなら喰いまくって溺れてくれよ、と読み手は期待してしまうわけですよ。で、案の定高野さんは朝から晩まで「カート」やり続けるんですね。
「カート」というのは葉っぱなんですが、生の葉を口の中に放り込んでくちゃくちゃ噛むんです。飲み込まずにくちゃくちゃ噛んだらほっぺたの内側に溜め込んでいきます。Googleで「カート 覚醒」で画像検索すると、ほっぺたをぽっこり膨らませてニコニコした男性がたくさん出てきます。彼らがカートジャンキーですね。
カートをやると社交性が向上し、言語も理解できるようになる(気がしてくる)し、頭もスッキリして多幸感に満たされるそうです。ただし、翌日は二日酔いに似た状態になってしまうため、それを治すにはカートを噛むのがいいんだとか。ただし、カートをやると酷い便秘に悩まされることになるため、腐りかけの牛乳を飲むなどの処置も必要になる。こういった知識はいつか役に立つはずなので非常に助かります。
本書「謎の独立国家ソマリランド」でのカートの話はあくまでファンサービスであり、本当のおもしろさは「ソマリランド」にあります。
「ソマリランド」なんて国、初めて聞いた人もいるでしょう。そもそも未承認国家なんですよね。
「ソマリア」なら知っている人も多いでしょう。ソマリアといえば海賊。2009年に実際に海賊に襲われたアラバマ号の船長救出劇が映画になりました。トムハンクス主演の「キャプテン・フィリップス」ではソマリアがいかに海賊ビジネスで成り立っている国家なのかが描かれています。(映画の感想 http://takushi.blog.jp/archives/51974443.html)
そんな「ソマリア」の中で、独立を宣言して「国家」を名乗っている自称国家、それが「ソマリランド」なんです。
例えば「パレスチナ」のように、「認めている国もあるけれど、認めていない国もある」ってレベルではなくて、どの国も認めていません。
でも「ソマリランド」は、自分たちだけでちゃんとお金の管理もやって、ちゃんと民主的な選挙もやって、ちゃんと治安を維持できているんですよ。北斗の拳状態の「ソマリア」の中で、驚くことにこれまで所有していた銃をみんなが捨てて、争いは話し合いで解決し、立派な民主的国家として成り立っているんです。
ただ、随所にツッコミどころはあるんですよ。例えば日本の自動販売機くらいの間隔で「カート」売りがいるとか。「ようこそ○○温泉へ!」みたいな日本語が書かれたバスがそこら中走ってるとか。表紙の写真でもわかるようにインフレがスゴいとか。
そういった笑わせてくれる要素を盛り込みながらも、「ソマリア」の現状がとてもよく分かる素晴らしいルポルタージュです。
本というよりは鈍器に近いほどのボリュームがある本ですが、飽きさせずに読ませる文体です。さすが「カート」の力とでもいいましょうか。とにかく面白い。
刊行から1年以上経っていますし、そろそろ文庫化なりkindle化なりするんじゃないかと思いますんで、そちらで読むのがいいかもしれませんね。
おもしろいです。ぜひ自分の価値観を壊してみてください。
著者の高野秀行による真っ赤なウソ、アヘンにやられてしまった彼の「幻覚小説」なんじゃないかと疑わざるをえない内容に、頭がクラクラしつつもこれだけは書いておかないといけない。
「クソおもしろかったぞ!」
高野秀行といえば伝説の名著「アヘン王国潜入記」があります。自らアヘン栽培のメッカ「ミャンマー北部」に潜入し、地元民と共に種蒔きから収穫まで手伝い、アヘンに手を出し中毒になった男です。
愛すべき「バカ」でしょ。
今回の新作ではアヘンではないものの、やはり現地では有名な覚醒植物「カート」にはまって中毒になるという期待を裏切らない展開を見せてくれます。
ただ、そこはいわば昔からの読者に対してのファンサービスみたいなもので、そこの土地は「カート」がメッカなら喰いまくって溺れてくれよ、と読み手は期待してしまうわけですよ。で、案の定高野さんは朝から晩まで「カート」やり続けるんですね。
「カート」というのは葉っぱなんですが、生の葉を口の中に放り込んでくちゃくちゃ噛むんです。飲み込まずにくちゃくちゃ噛んだらほっぺたの内側に溜め込んでいきます。Googleで「カート 覚醒」で画像検索すると、ほっぺたをぽっこり膨らませてニコニコした男性がたくさん出てきます。彼らがカートジャンキーですね。
カートをやると社交性が向上し、言語も理解できるようになる(気がしてくる)し、頭もスッキリして多幸感に満たされるそうです。ただし、翌日は二日酔いに似た状態になってしまうため、それを治すにはカートを噛むのがいいんだとか。ただし、カートをやると酷い便秘に悩まされることになるため、腐りかけの牛乳を飲むなどの処置も必要になる。こういった知識はいつか役に立つはずなので非常に助かります。
本書「謎の独立国家ソマリランド」でのカートの話はあくまでファンサービスであり、本当のおもしろさは「ソマリランド」にあります。
「ソマリランド」なんて国、初めて聞いた人もいるでしょう。そもそも未承認国家なんですよね。
「ソマリア」なら知っている人も多いでしょう。ソマリアといえば海賊。2009年に実際に海賊に襲われたアラバマ号の船長救出劇が映画になりました。トムハンクス主演の「キャプテン・フィリップス」ではソマリアがいかに海賊ビジネスで成り立っている国家なのかが描かれています。(映画の感想 http://takushi.blog.jp/archives/51974443.html)
そんな「ソマリア」の中で、独立を宣言して「国家」を名乗っている自称国家、それが「ソマリランド」なんです。
例えば「パレスチナ」のように、「認めている国もあるけれど、認めていない国もある」ってレベルではなくて、どの国も認めていません。
でも「ソマリランド」は、自分たちだけでちゃんとお金の管理もやって、ちゃんと民主的な選挙もやって、ちゃんと治安を維持できているんですよ。北斗の拳状態の「ソマリア」の中で、驚くことにこれまで所有していた銃をみんなが捨てて、争いは話し合いで解決し、立派な民主的国家として成り立っているんです。
ただ、随所にツッコミどころはあるんですよ。例えば日本の自動販売機くらいの間隔で「カート」売りがいるとか。「ようこそ○○温泉へ!」みたいな日本語が書かれたバスがそこら中走ってるとか。表紙の写真でもわかるようにインフレがスゴいとか。
そういった笑わせてくれる要素を盛り込みながらも、「ソマリア」の現状がとてもよく分かる素晴らしいルポルタージュです。
本というよりは鈍器に近いほどのボリュームがある本ですが、飽きさせずに読ませる文体です。さすが「カート」の力とでもいいましょうか。とにかく面白い。
刊行から1年以上経っていますし、そろそろ文庫化なりkindle化なりするんじゃないかと思いますんで、そちらで読むのがいいかもしれませんね。
おもしろいです。ぜひ自分の価値観を壊してみてください。
2014年06月08日
ウェス・アンダーソン監督の最新作「グランド・ブタペスト・ホテル」を鑑賞してきました。
この映画はほぼ全編が固定カメラで撮られていて、どのカットもまるで絵画のようにキレイでした。映像が縦横比1:1なんですが、その四角い絵の中に配置された小物と人物がどれもこれも美しくて、色使いがちょっと「アメリ」っぽい可愛らしさもあって、おもちゃ箱の中に自分が入ってしまったかのように感じられる映画です。
ウェス・アンダーソン監督の映像はどの作品も構図が左右対称になっているんですね。下記の動画を見ていただけると分かりやすいと思います。
Wes Anderson // Centered from kogonada on Vimeo.
センターにラインをいれてみると、ウェス・アンダーソン監督の特徴が見えやすくなりますね。
映画館の席も、なるべくセンターに自分が座れるように早めにチケットを取って鑑賞してみてください。
公開初日ということもあって、外はざんざん降りの雨模様にも関わらず、ほぼ満員御礼でした。ウェス・アンダーソンはその映像美が人気で、客層もかわいくておしゃれな若い女性が多かったんですけど、そのポップでかわいらしい映像が女性に人気なんだと思います。でもこの映画、ただ映像が美しいだけじゃなくて、その裏にはいろんなメッセージが詰まっています。ちょっと説明が必要な映画なんですね。
最後、エンドロールの前に「シュテファン・ツヴァイクの著作と生涯にインスパイアされた」と出てくるんですが、日本語の字幕がそこには入っていないんで見逃してしまうかもしれません。僕が気付けたのは事前に映画評論家の町山智浩さんがラジオで解説してくださったからなんですけども。
「シュテファン・ツヴァイク」って、僕も知らなかったんですけども、1930年代に世界で一番売れた作家さんなんだそうです。オーストリア人なんですが、その頃のオーストリアはハンガリーと合体していて、ユダヤ系の人に対する差別が強かった時代に選挙権を与えたんですね。ユダヤ系を差別するのを禁止する政策をとった。それで首都ウィーンには優秀なユダヤ系がたくさん集まったそうなんです。精神分析医のフロイト、作家のカフカ、作曲家のシュトラウス、哲学者のウィトゲンシュタイン。各分野の優秀な面々が集まったウィーンはカルチャーの最先端だったそうです。
でもそのあと、第一次世界大戦が勃発してしまって、オーストリアは負けてバラバラになってしまいました。その大量虐殺に心を痛めたシュテファン・ツヴァイクは「もう二度と戦争を起こしてはならない」と世界中のインテリ層に声を掛けて、世界平和のネットワークを作ったんです。
でもこの後、みなさんご存知のとおり、ナチがドイツで政権をとって、オーストリアと併合しました。ユダヤ系の人たちは権利を全て奪われ、あんな事になってしまうんですね。
シュテファン・ツヴァイクの本は、世界平和のメッセージが色濃く反映されていたそうで、ナチはツヴァイクの本を焚書(書物を焼却)するんです。世界で一番売れていた作家さんなんですが、世界規模で抹殺したんです。
シュテファン・ツヴァイクは世界平和を信じていたのに、それはもう昨日の世界なんだって失望して、一冊の本を書き上げます。その本を書きおわったあと、彼は自殺してしまったんですね。それがこの本「昨日の世界」です。
それほど高値ではないのですが、やはりプレミアがついていて手を出しづらいので、出来ればkindle化していただきたいですね。
「グランド・ブタペスト・ホテル」の主人公は「シュテファン・ツヴァイク」がモデルとなっています。
とってもかわいい映画なんですが、頭の片隅にでも、激動の時代に抹殺された「シュテファン・ツヴァイク」の存在をいれておいて観てもらえると、この映画の深さがわかると思います。
とってもかわいくて、楽しくて、でも今もどこかで争い続けているこの世界を思って少しだけ唇を噛んでしまう、大変素晴らしい映画です。オススメです!