2013年03月

2013年03月27日

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“愛する人には愛されず、欲する物は我が手に入らず、手の中の玉は逃げ出し、希望の多くは仇夢なのだ。”—坂口安吾「デカダン文学論」


手間をかけ偶然を積み重ねたので、廿日鼠と夏の頃、すっかりと仲良くなった。併し実のところ、廿日鼠は仲の良い取り巻きの女史に常々囲まれており、二人きりになる機会なぞ滅多なかった。取り巻きは数名いて、廿日鼠と私の距離を縮める一助となってくれてはいたが、有難味は次第に薄れ、この恋の障害どもを蹴り殺したい衝動がこみ上げてくる。女史も鋏も使い様だとは友人から常々説教されていたが、女史の用途なぞ千摺りでの二次利用以外思い浮かばない為体振りの私。併しこの取り巻き女史達に至っては何分セクシイさに欠けていた。根がスペクタクルで出来ている私でさえ、アイボリイの木綿肌着を穿かせてやるのが精一杯で、純白の絹下着を穿かれておられるであろう廿日鼠を想えば、汚すに値しないのである。であるならば使い様もない。使い様もないのだが、味方につけるしか道はどうやらないのである。そこで取り巻きのうちの同じクラスの阿呆の方に相談を持ち掛けた。
「ぼく——実を言うと廿日鼠が好きなんだよね。」
「え、あからさまにわかるよね。」
「——そんなあからさまだったかな。」
「え、ばれてないと思ってたんだ、ある意味すごい。」
阿呆に露見するほど表に出ていたとなると、廿日鼠からもそう見えているのかと心が錐揉みする。はた思い返し、この阿呆は恋心を知りながらにして、廿日鼠を取り巻いていたのだよな、それはつまり廿日鼠に悪い虫がつかぬよう(まさか私が悪い虫であるはずもないのだが)二人きりにしてはいけないなんてクソみたいな正義感のつもりかと頭に血が昇る。併しここは蹴り殺したい衝動を抑え、阿呆に伺いをたて真偽を問い正すと同時に、告白の結果を覗いてやろうと、浅ましさをオブラアトに包んだ質問をしてみた。
「告白してみようと思うんだけど、おまえの意見を聞いてもいいかな。」
「——たくし君はねえ、外見上はいいと思うの。でもね、喋るとボロが出るから——そうね、ずっと黙ってればいけると思うよ。」
言うなり、けたけた笑い出した。耳障りな笑い声に反応して再び頭に血が昇ってきた私は、近くに廿日鼠がいないのを確認し、ノオトを丸めて阿呆の頭を思いきりはたきつけてやった。
「ほら、ね。」
「ほらね、じゃねーよ。何がいけると思うだよ。おまえほんと阿呆だろ。」
「ほら、ほら。」
目を丸っとして頬を赤らめるので、退きどきと察し、矢継ぎ早に空っぽの鞄を持って学び舎を後にした。外に出て空を見上げると雲一つとない空っぽの青だった。鞄の中も、この空も、あの阿呆の頭の中も、全部空っぽじゃないか。併しかく言う私も空っぽだったとオチがつき、けたけたと乾笑を零した。

油蝉のジリジリと鳴く音と、練習に励む野球部の掛け声が雑じり合った夏の音を聴きながら、放課後の学び舎で廿日鼠達と花火の計画を立てた。夏の夜、男女が忍んで花火を嗜むなぞ、童貞の私にとっては色事に他ならず、つまりは愛の告白に廿日鼠がごくんと頷いたに相違なかった。男子四人と女史四人、都合八人での花火であるが、それでも頷いたに相違ない。
「じゃ、金曜日な。」
足早に学び舎を後にして花火を仕入れに駆ける私の心の中は、廿日鼠と二人で線香花火をする夢がパチパチといつまでも鳴っていた。『線香花火を好きな人と一緒にやって、火玉が最後まで落ちずに燃え尽きたなら、その恋は叶うんだって』そんな女史学生の馬鹿げた仇夢を思い出し、落ちるものか、落ちるものか、落ちるものかと何度も舌の上で言葉を転がした。酉の月の酉の刻、月光も陽光も祝福するように私を照らしてくれていた。

その瞬間が楽しければ楽しいほど、幸福であれば幸福であるほど、言葉として書き起こそうとすればするほどに、其れが嘘だったかの様に遠ざかる。恐らく先人は其れを青春と概念化したのであろう。あの綺羅を尽くした夏の夜、廿日鼠と過ごしたあの夜よ——

(秋につづく)


座頭魄市orejiru at 12:09│コメント(0)トラックバック(0)創作  | このエントリーをはてなブックマークに追加

2013年03月12日

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〝人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。〟—坂口安吾「堕落論」


西村賢太「どうで死ぬ身の一踊り」読了後、その面白さの味をしめ、同作家「苦役列車」「小銭をかぞえる」「二度はゆけぬ町の地図」「暗渠の宿」と立て続けに読み耽った。前記五作品でもって一先ずの腹は満たされたものの、その腹の少しばかり上にある胸中は、ざわりと不気味に騒いだ。この時分、負けん気任せの私小説に取り掛かりたいと早る気持ちが、ざわざわと鳴いているのかと思うたが、どうもそれだけではないような、奇妙な感覚があった。辿ってみるとそれは、冒頭の一文と出逢った齢十六の秋に続いていた。


十六を思い返してみれば、粛々淡々と繰り返される退屈な日常に、殆飽き飽きしていたのだが、ひょいと外れた先に待つ、激情の屑のようなものを見つけた。それは校庭を挟んだ学び舎の向かいに建つ、弓道場にあった。授業の終わりを告げる鐘が鳴れば、仮令手付けのものあれども、やや駆け足で弓道場へと向かった。的場は山の斜面に設けられており、その周囲を鬱蒼とした森が囲む。その森へ踏み込んで茂みを掻き分け、的場裏に回り込み、忍んで二十八メートル前方の射場を見つめて折を待つ。頃合い良く部員どもがぞろぞろとやってきて、練習が始まると途端、矢継ぎ早に矢を放ってくる。軍の庭と化したその戦線にて腕を組み見ていると、私を仕留めようと躍起となっている敵軍に思えてきて、空切るばかりで中たらぬぞと高笑いなぞ返してやりたくもなってくるのだ。そのうちに「ひゅんっ」と音たて迫る矢に、私の陰嚢もつられて「ひゅんっ」といじらしく縮こまるのに気付き、このいじらしい現象に名前をつけねばとしばし考えて、「ひゅんっ」と名付けるなぞしてやった。

ところで目的は、「ひゅんっ」と陰嚢を縮こませるに非ず、実のところ弓道女史を覗いていた。凛とした姿勢で射形を磨く女史どもの姿を確り焼き付けてから、早々に帰宅し、先程の女史どもの姿を眼前呼びつけてからに千摺る。此度何処を射て汚してやろうか、白筒袖か黒袴か白足袋か。今日も今日とて胸当てか。弓のように身を撓らせ射精に至り、結局いつも自分を汚す始末であった。

射場の隅で、いつも雑用ばかりしている身の丈小さな女史がおり、ちょろまかと廿日鼠のようにせわしく動く様が妙に気になり始め、次第にそれは恋心と膨れていった。廿日鼠は同学年と知れて、どうにか接近出来ぬものかと奇策妙計を机に齧り付いて練るも、半刻も経たぬうちから千摺り振出しに戻る始末。結局下手の下手、ふみと言ふ熊のような図体の男に依頼する意を固めた。ふみ君は廿日鼠と同じ組の同じ弓道部であるし、間を取り持っていただけるだろうと当たりを付け話し掛けた。「ふみ君、面識もないのに失礼な話かもしれないけど、頼みがあるんだ。ぼく、恋をしていてね、その子に近寄るきっかけが欲しいんだ。」初対面ではあったが、根が小心者で出来ているくせして、この時ばかりは、ふてぶてしくも用件から切り出した。無論万が一にも断ってくるようであれば、踵を返すと見せかけ回し蹴り、伸してやるつもりであったが、併し根が善意で出来ているふみ君は、茶漬けを召すようにさらり頷いた。斯くして廿日鼠が駅前で、帰りの電車を待っているところに偶然の態でもって接近し、与太話にこぎつけたのだった。以来、偶然的待ち伏せ、自然的がぶり寄り、徒然的千摺りなぞ繰り返し、人生において初めての、恋人なる存在を得られるやもしれないなあ、と期待愈々高まり、その折を夢見て毎夜月を見上げた。

(夏につづく)

座頭魄市orejiru at 20:01│コメント(0)トラックバック(0)創作  | このエントリーをはてなブックマークに追加

2013年03月02日

Vol7

ダイレクト文藝マガジン - 個人出版ゲリラのための戦う電子書籍メルマガを読みました。
今回のVol.7は娯楽性が強まっていて、幅広くオススメできる内容でした。
以下みどころピックアップ

非実在少女しずむちゃん

表紙デザインにもなっている、鈴木フルーツ氏が描く女の子「しずむちゃん」4コマ漫画。あとがきで「ぼくは冷静です」と弁解しておりますが、可愛らしいタッチで描かれる、その猟奇的思考は、まともなニンゲンとは思えません。もちろん絶賛の言葉として。
“エロ”の元素は“水分” 
性癖の違いはあれど、元素は水分で出来ています。
汗、涙、涎、尿、便、潮、乳。
“エロ”を元素に分解し、化学結合して遊ぶ鈴木フルーツ氏から、今後も目を離せません。
おもしろい!

『ロワールの洞窟』

「こばふう」さんの読切短編。この方について説明する言葉をもたない。圧倒的な美しさ。
文体が芸術品です。
KDPってまだまだアマチュアレベルでしょ?安心できる出版社発信を買うよ!
そんな層にこそ読んでもらいたい作家。アマチュアレベル?そうね、全然ちゃいます。

『女たちの遠野物語』

遠野市出身の佐々木大輔氏による新コーナー
柳田國男の『遠野物語』をわかりやすく解説してくれます。

『遠野物語』のもうひとつの楽しみ方の提案をします。テーマは「女性」。百年前に描かれた遠野物語のなかから、女性にまつわるエピソードを選び出してご紹介します。河童や座敷童や山人といった怪異譚ではなく、現代の感性にも通じる普遍的なエピソードを、遠野物語の中に再発見していければと思っています。


今回は3話収録。丁寧でわかりやすい解説で遠野物語を楽しめる良コーナー。
まえがきの佐々木氏の言葉に、強い郷土愛を感じます。

以下は柳田國男のことば
思ふにこの類の書物は少なくとも現代の流行にあらず。いかに印刷が容易なればとて、こんな本を出版し自己の狭隘なる趣味を持ちて他人に強いんとするは、無作法の仕業なりといふ人あらん。されどあへて答ふ。かかる話を聞きかかる処を見て来て後、これを人に語りたがらざる者はたしてありや。


佐々木氏のことば
いかに電子書籍を作るのが容易なればとて、パブリックドメインの作品をコピペして売りつけんとするは、無作法の仕業なりといふ人あらん。されどあへて答ふ。自らが生まれたる土地に言い伝えられしおもしろき物語を知りて、これを人に語りたがらざる者はたしてありや。



アマチュアリズムを覗いてから言え

このアマチュア集団のおもしろさは口に含んではじめてわかる。
さしづめ紙の本とは“冷めてもおいしいスープ”です。
熱いスープを味わうなら、今このマガジンにあります。いったいどんな味がするのか、見ても嗅いでもわからぬスープを、舌にのせてみよう。感動は、未体験の先にあるのです。

すべてはアマチュアリズムから生まれるのだ。

座頭魄市orejiru at 17:08│コメント(0)トラックバック(0)  | このエントリーをはてなブックマークに追加
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