2012年12月

2012年12月07日

twitter-logotype

高校2年生の子がこんなツイートを




そのあと




炎上



























このような声が、追えないほど膨大な非難が
高校2年生のもとに寄せられております

これが正義



座頭魄市orejiru at 23:40│コメント(0)トラックバック(0)真理  | このエントリーをはてなブックマークに追加

2012年12月01日

2012年にreblogしたテキストまとめ読みしてみて
特におきにいりテキストをまとめました

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人間のコミュニケーションにうんざりしてくるのだ。挨拶とか、他人の夕食の写真とか、「いいね!」とか、めんどくさい。他人の生活に興味がない。他人を遮断したい。でもインターネットはしたい。そういうときはいつもTumblrを見る。Tumblrのダッシュボードに深く深く潜って、無数の文章や画像、面白ニュース、定番のコピペ、気の利いた発言の引用、箴言や格言や風刺、ネタ画像、アート画像、セクシー画像、猫画像の海に身を浸していると、とても心が落ち着くのだ。


あぁ 俺もう独身じゃないんだぁと思った瞬間。:アルファルファモザイク

63 素敵な旦那様 :04/07/10(土) 15:40
言葉を発する前に
「これを言ったら空気が悪くなるかな」と考えてからしゃべるようになった
あんまり本心を言わなくなった
自分の事は言わなくなった
無口になった
世界中のお父さんが何故ここまで無口で謙虚なのかやっとわかった


言葉は経験を超えられない。経験を超えようとするとき嘘をつく。

攻撃も防御もしていない文章というのは、メモのようなもので、他人が読んだりする価値はない。


すごく乱暴に要約すると「アホに優しくすること」でメシを食ってる人はとても多いと思う。


なまじ社会人やってると、仕事してる程度で何かをやってる気になるから危ない


九州の田舎から出てきた青年に「FacebookとかTwitterとかやらないの?」って聞いたら「自分が何食ったとか、あいつがどこに行ったとか、そういうのが嫌で大阪に出てきたのに、なんで今さらそんな田舎みたいな事やらにゃならんのですか」って怒られた。





努力は夢中に勝てないんです。



子供はおもちゃが好きだけれど、彼らがそれを手にするとき、イメージしているものは本物なのだ。おもちゃというのは、この想像力を持っている者でないと楽しめない。大人になって、おもちゃがつまらなくなるのは、想像力が衰えるからである。


人って、うっかりだれかの希望を叶えたくなるんだけど、ホントにやるべきことは、自分自身が希望になることなんです。


「品っていうのはね、隠れた部分の完璧さ」なるほど。「愛嬌っていうのはね、遊び心」なるほど。「色気っていうのはね、色気っていうのは、教養なのよ」なるほど!


どこに行くのか知らないなら
どの道を通っても同じだ

ネイティブ・アメリカンの部族 スー族のことわざ。


人生三日楽しみたければ「酒」を覚えなさい。人生三年楽しみたければ「音楽」を覚えなさい。人生一生楽しみたければ「酒と音楽」を覚えなさい。


いっこく堂にフ○ラされたら快感は遅れて襲ってくるの?



VIPPERな俺 : 「アンパンマンは君さ」と言われてから十数年過ぎてようやく納得した

6 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2012/10/18(木) 13:13:29.00 ID:kB+rO4ReO
甘い考えで頭の中がいっぱいだしな


書店の「女性作家あ〜ん」という表示は何とかならんのかな


サンタで画像検索したら本物のサンタよりもサンタコスした女の子の方がいっぱいでるとかもうね……素晴らしい世の中になったなって


あなたが微笑むとき、まわりに誰もいないなら、それは本当に微笑んでいるということだ。(アンディー・ルーニー)


二十歳のとき描いたものを、
自分が25歳だったらぜんぶ消しちゃうよね。
30歳でもぜんぶ消しちゃう。
でも、二十歳のときの絵を、
40歳の自分だったらうまく直せると思う。
30歳のときは10年前の自分の若さが
恥ずかしくて許せないと思うけど、
40歳になったら、それを残して、
違うところをいじることができると思う。
いま、ぼくはもう50歳だから、
いくらでも直せる(笑)。
いい感じに直せて、完璧なものに近づいていく。


写真画像そのものを、「いい」「悪い」「美しい」「醜い」と評価する客観的な基準は、ありません。美は主観と印象の産物だからです。

 しかし、写真にいくつかの目的を持たせるならば、そこに「いい」「悪い」の価値基準が生まれます。

 たとえば、速報性という目的を持った、報道写真がそうです。事件の瞬間を撮影した写真には価値があり、事後の写真にはあまり価値がありません。

 そして、宣伝材料などのポートレイト。たとえありのままに写した写真であっても、女性の肌が荒れて写っている写真は、「悪い」写真です。


 写真に目的を持たせるならば、当該目的を充分に果たす写真こそが、「いい写真」なのです。


 ところが問題は、わたしたちが目的の見え透いた写真に満ちた社会に生きていることから生じます。政治的な目的を持った写真、商業写真、報道写真、家族写真。わたしたちは、写真のメッセージを瞬時に、的確に読み取ることができます。そして、わたしたちは写真のメッセージを多かれ少なかれ、「割り引いて」受け取っています。


 女優のポートレートを見ても、「肌があんなに綺麗なはずがない」と思い、

 選挙ポスターの笑顔には、「政治家の笑顔には裏がある」と信じ、

 風俗嬢の腰のくびれには、「修正でくびれさせたにちがいない」と疑い、

 マクドナルドのメニュー写真には、「実際のハンバーガーはもっと萎(しな)びているぞ」と、あきらめるのです。


 わたしたちは、目的を持って提示されるすべての「いい」写真に飽きています。したがって、何らかの目的を上手に果たしている写真を見ても、何も感じなくなっているのではないでしょうか。


「地下鉄のバイオリニスト」

一人の男がワシントンDCの地下鉄駅構内に立ってバイオリンを弾き始めた。

1月のある寒い朝 だった。彼はバッハの曲を6曲約45分間演奏した。その時間帯はラッシュアワーで、約1000人がその駅を通った計算だ。ほとんどの人たちは仕事に行くと ころだった。

3分を過ぎた所で、一人の中年の男性が音楽家が演奏していることに気づいた。彼は歩くペースを緩め、数秒間立ち止まったが、 やがて自分の予定に急いで戻って行った。

1分後、バイオリニストは最初の1ドルのチップを受け取った。一人の女性が箱にお金を投げ入れ、 そして止まることなく歩き続けた。

数分後、壁にもたれて彼の音楽を聴く者がいたが、その男性は腕時計を見てまた歩き始めた。彼は明らかに 仕事に遅れていた。

もっとも注意を払ったのは3歳の男の子だった。彼の母親がその子を引っぱって急ごうとしたが、その子は立ち止まってバ イオリニストを見ていた。最後に母親が強く押したので、その子どもは何回も振り返りながら歩き続けた。このような動作が他の何人かの子どもたちによって繰 り返された。親たちは、例外なく、子どもたちを先に急がせた。

その音楽家が演奏した45分間で、わずか6人が立ち止まってしばらくそこに いた。約20人がお金を彼にあげたが、ペースを緩めることなく歩き続けた。彼は32ドル集めた。彼が演奏を終えると、辺りは静かになったが、誰もそのこと に気づかなかった。拍手する者はだれもいず、だれも気づかなかった。

誰も知らなかったが、そのバイオリニストは世界の最も優れた音楽家の 一人であるジョシュア・ベルだった。彼はこれまで書かれたうちで最も難解とされる曲のひとつを演奏した。350万ドルの価値あるバイオリンで。

地 下鉄で演奏する2日前に催されたジョシュア・ベルのボストンでのコンサートは売り切れていた。そのチケットは平均で100ドルだった。

こ れは本当の話だ。地下鉄駅でジョシュア・ベルがお忍びで演奏することを企画したのは、ワシントンポストで、これは人々の認知、テースト(嗜好)、優先順位 についての社会実験のひとつだった。

その企画の概要はこうだった。
ありふれた環境で、都合の悪い時間に、
私たちは美を認 知するか?
足を止めてそれを観賞するか?
予想できない状況でも才能を認知するか?

この経験から得られる結論のひとつはこ うだろう。

世界最高と言われる音楽家のひとりが最高の作曲と言われる曲を演奏するのに、一瞬たりとも立ち止まって聴くことをしないのなら ば、私たちはどれほどのものを見過ごしているだろうか?


11人で一杯になる店。
それが彼女ひとりで、
うつくしく鰻を焼いてうっすら額に汗をかき、
けれど疲れずお客様のひとりひとりに目が配れる。
それがこの席数なんだと、
その大きさにずっとこだわり決して大きくしなかった。
昼は手軽な丼なんかもあったけど、
夜は注文を受けてから鰻を割いて蒸して焼く。
だから焼き上がるまでかなりの時間がかかりました。
その時間を、酒を飲みつつ待つというのが
たのしいお店であったのでしょう。
いついっても、おじさんたちがニコニコしながら
飲んでいた。
ルールがひとつありました。
お酒は2合を越えては売らぬというもの。
酔っぱらいは嫌いだから、というのが祖母のこだわりで、
けれどすべての人が2合目の徳利を
売ってもらえるかというとそうじゃなかった。
2合を越えて売らぬというのが目的ではなく、
酔っぱらいには酒を売らぬというのが
ルールの意味するところでありましたから、
祖母が「あなたは酔っぱらってる」と判断した人は
お酒のお替りにありつけない。
判断基準はとても簡単。
お箸を箸置きに置かぬ人。
器の箸にひっかけたり、
あるいは箸置きに置いても
そこから正しい所作で箸を持てぬ人は、
美しくない人と判断されて、今日はお酒を売りませんと。
だからか祖母のお店のおじさんたちは、
みんなニコニコ、背筋を伸ばして
お酒をたのしく飲んでいた。
小さなお店の中にいる、全ての人が同じように行儀よく、
たのしくそしてうつくしく
誰の邪魔もしないで食事をするステキ。
食べる「モノ」が好きなのでなく、
食べる「コト」が好きな人たちで満たされた
レストランって素敵だなぁ、
と子供ながらにボクは思った。


座頭魄市orejiru at 00:03│コメント(0)トラックバック(0)真理  | このエントリーをはてなブックマークに追加
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