2011年01月

2011年01月31日

2011年読書録④冊目
現在日本でのmixi会員数は900万人、twitterの会員数は1500万人、フェイスブックの会員数は300万人と言われています。昨年はtwitterが日本で社会現象になり、急速に会員数を伸ばしましたが今年は間違いなくフェイスブックの年となりそう。フェイスブックは日本では流行らないだろうと高を括っていた僕はこの本を読み始めて早々にその考えを改める事になったのです。


フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)
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正直なところ、これほど胸が高ぶっているにも関わらず、それをうまく言葉に出来ないでいます。世界の変わる瞬間を一体どう表現したらいいか。恐らく、フェイスブック創始者マーク・ザッカーバーグが語る未来は実現されるでしょう。少なくとも僕はそれを疑わないし、その世界を望んでいます。

市場経済はまもなく終わるだろう。
まもなく世界は贈与経済へと移行するだろう


贈与経済
ザッカーバーグの発言を引用すると
より透明な世界は、より良く統治された世界やより公正な世界をつくる
これがザッカーバーグの信念の核心です。
例えば僕が誰かになにかしらを与える事によって、義務感からかあるいは寛容さからか与えられた人もまた返すか、他に与えようとします。この世界は少なからず相互贈与の枠組みの中で動いています。それは小さいコミュニティの中ではうまく機能していました。しかし経済が発展した今日ではあまりにも大きなコミュニティとなったため、細部にまで目が行き届いておらず、そのためズルをする人達も多くいます。そして贈与経済は今日の世界ではただの理想主義でしかないようにも思えます。しかしザッカーバーグはSNSにより透明な世界を作り、我々を贈与経済へ導こうとしています。友人達によって監視され、友人達と確かなコミュニティを作る。フェイスブックが実名主義を貫くのはこの信念があるからです。本当の自分にならないかぎり、フェイスブックの中にはいられないのです。インターネット上で僕らがアウトプットする情報贈与です。CMで美しい女優が宣伝した化粧品よりも、身近な信頼のおける友人がオススメする化粧品に惹かれるように。それが相互贈与となり、より公正な世界をつくっていくのです。

メディア
新聞、雑誌、TV…既存のメディアはいずれ完全に消えてしまう日がくるかもしれません。フェイスブックのニュースフィードは既存のメディアには出来ない重要なニュースを流してくれます。僕らは今日もアフリカで多くの子供達が餓死している事実よりも、親しい友人の子供が高熱を出してしまった事の方が時には重要な事であったりします。友人が何に興味を持っているのか、そういった身近な信頼している人の情報がはるかに有益と感じます。大きなメディアは消え、やがて個がメディアとなる日はそう遠くはないかもしれません。ただこれはblogが誕生した頃から個人がメディアとなる時代がくる予感はありました。RSSでより便利になり、twitterで速報性が高まりましたが、実名であるフェイスブックに僕はより可能性を感じました。

現実世界とのリンク
他のSNSではその匿名性ゆえに本音が語れるという利点があります。しかし果たして本当にその匿名から発信される情報は有効的でしょうか。また友好的でしょうか。共有したいものは誰とでも共有でき、秘密にしておきたいことは頭の中にとどめておく事、これこそ本来あるべき姿ではないでしょうか。そしてそれが実現された時、インターネットと現実世界は完全にリンクすると思います。現に現実世界にリンクし始めてる事実として、現在米国では企業の35%が人事採用の判断をフェイスブックを見て判断しているそうです。

物理的通貨の終焉
また、先日のニュースでフェイスブックが仮想通貨の義務化を発表しました。
Facebook、ゲームデベロッパーに独自仮想通貨Facebook Creditsの利用を義務付けへ
オンラインゲーム内で使用する仮想通貨に関するニュースでしたが、僕はこのニュースを見ていずれ仮想通貨が物理的通貨に取ってかわる存在になる幕開けを感じました。フェイスブック内で商品のやり取りを行い、フェイスブック内で仮想通貨の受け渡しを行える。全てはフェイスブック内で完結してしまう日が来るのかもしれません。物理的通貨は落としてしまうリスクや盗難のリスクなどありますが、仮想通貨であればそのリスクがなくなるでしょうし、より便利になるはずです。


この本を読んで感じたのは、ザッカーバーグのビジョンは他の誰も見る事が出来ないほど遠い未来のビジョンを明確に描いているという事。そして何よりも透明である事。彼の描く理想世界は実現出来るのか。大きく躓く事なく5億人を繋いだ彼が、次にどのよう手を打つのか目が離せません。彼が本当にこの世界をひっくり返してしまうのか。僕は大いに期待したい。

おわりに
2004年。フェイスブックのパーティーを主催した際、招待メールの文言です。

きみの周りの世界を見たまえ。ぴったりのタイミングでちょっとひと押しすれば、世界はひっくり返せる



余談ですが現在公開されているデヴィットフィンチャー監督のソーシャルネットワークが話題になっていますが、何故フィンチャー監督なのか正直理解出来ずにいました。しかしひとつ明確に分かっている事はフェイスブックのプロフィール欄において、好きな映画に「ファイト・クラブ」を挙げる人が大多数を占めるというデータです。(ちなみに一位はバス男だそう)僕の想像の域を出ない結論ですが、効率的に興行収入をあげる最も有効なアプローチを考えた場合、やはりデヴィットフィンチャー監督に映画製作を依頼するのが最も効果が望めるでしょう。フェイスブックをプラットホームとして利用している多くの人は「ソーシャルネットワーク」を題材にした映画とあれば興味を持つでしょう。それがあの「ファイトクラブ」を監督したフィンチャー監督なら尚更。早々に映画を鑑賞する人達はフェイスブックを利用していると考えられるため、早々にフェイスブックにその感想をアップする。たちまちに世界中に広まるという筋書きです。そしてこれが見事に成功しています。フェイスブックに集められた膨大なデータは今後もこのような戦略を練る最適なプラットホームになると確信した瞬間でした。

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2011年01月25日

松たか子主演の話題作「告白」がやっとDVDになりました。twitterでも話題になり、僕も観に行きたかったのですが、結局DVDを待つ事となりました。期待しすぎた僕が悪かったのでしょうか。僕はこの映画をとても楽しみにしていました。それだけに映画鑑賞後の脱力感、そして失望も大きかったのだと思います。
これから僕の失望した項目2つをA.Bと呼ぶ事にします。


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失望A
事前情報をなるべくいれない方がいいと多くの方が言われるので、僕はそれを受け入れ、映画の予告だけという情報でこの映画を観ました。勘のいい方ならもしかしたら分かったのでしょうか。僕の処理能力が悪かったのでしょうか。僕は予告を観るかぎり、犯人が最後まで分からないまま進んでいくサスペンス仕立ての映画だと勘違いしてしまったのです(心は不安定なまま進んでいくのでカテゴリとしてはサスペンスなのですが)予告編には大きくテロップで容疑者37名と出ます。このテロップは適切だったのでしょうか。早々に犯人A.Bは教師の口から告白され、僕はそのあっけなさに戸惑いながらも、まだ心のどこかで物語の大きな「転」を期待していたのだと思います。結果、僕は最後までそれを引き摺る事で脱力感だけが残ってしまいました。

失望B
登場人物の誰一人として肉付けがされていないと感じました。この映画で伝えたい事はひとつだけ。それは命の重さです。にも関わらず教師、犯人A、犯人B、その他クラスメイトのひとりひとりの命が軽く感じました。松たか子演じる教師は愛する一人娘を殺されました。男である僕が息子が殺されたと仮定して想像するだけでも耐えられません。犯人が分かれば子供であろうと後先考えずその場で殺してしまうかもしれません。ましてや彼女は母親です。その絶望は想像し難いものでしょう。そしてその感情を映画の台本から削る事に何のメリットがあるのでしょうか。命の授業という大義のはずが、その最も重要な彼女の心を削り取ってしまうなんて、僕が映画監督であればそんな残酷な事は出来ません。ついでに言えばスローモーションや早回しも、ただ映画に緩急をつけようとするあまりに不必要なシーンに軽率に使われていて残念です。


最後に松たか子の演技力について
演技力が高く評価されていましたが僕には一切演技力が分かりませんでした。批判してるわけではありません。演技力が垣間見える瞬間も少しはありましたがあまり迫ってないです。端的に言えば映画監督がダメでした。


座頭魄市orejiru at 20:55│コメント(1)トラックバック(0)映画  | このエントリーをはてなブックマークに追加

2011年01月23日

以前お薦めの恋愛映画として「シーズ・ソー・ラブリー」を紹介しましたが、はじめに僕が薦める恋愛映画として「ローマの休日」を押しました。そのローマの休日について少しだけ書いておこうと思います。
改めて説明する必要ないほど世界中で広く親しまれている恋愛映画として、特に女性から根強く支持されているこの映画。女性は恋愛においてどんな側面を重視しているのか多くのヒントが隠されています。

愛の告白
ローマの休日の一番重要な点とも言えるのですが、ヘプバーン演じるアン王女、そしてグレゴリー演じるジョー記者のふたりの間で一度も愛の告白がありません。ここが重要なのだと思います。女性から高く評価され、恋愛映画の最高峰とまで言わしめた映画が教えてくれたのは、女性が最も重視しているのは愛を言語化することではなく非言語コミュニケーションなのです。wikipediaを参照してみると非言語コミュニケーションとは身振り、姿勢、表情、視線に加え、服装や髪型、声のトーンや声質などの種類があるとあります。そしてローマの休日では、この非言語コミュニケーションの変化に着目してみるとその全てを盛り込んでいるのが分かります。下記の写真を比べてみて下さい。

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上の写真が出会い、下の写真が打ち解けたふたりです。アン王女とジョー記者が出会った頃は、王女の気品が漂っています。姿勢よく凛とした表情で、視線はジョー記者にあまり向きません。それが美容院に行って髪を切り、表情も次第に豊かになっていくのが分かります。視線もジョー記者をよくみつめるようになります。そして服装の表現方法も素晴らしいです。王女の設定上、服を変えるには制限がありました。そこでこの映画では襟元で表現をしています。出会った頃はシャツのボタンをしっかりとしめているのですが、心をひらいていくのに比例し、シャツが開襟していきます。
これら非言語コミュニケーションによって構築されたローマの休日を女性達が恋愛映画の最高峰と位置づけている事からも分かるように、女性が重視しているのは「愛」を言語化する事以上に非言語で「愛」を表現する事ではないでしょうか。この事を男性は頭の中の片隅にいれておくことで女性の非言語メッセージを察知しやすくなるでしょう。

おまけ
ローマの休日でみてわかった非言語コミュニケーションは他の事でも当てはめられます。今度は「ローマの休日」から離れて「ローカルの週末」に目を向けてみましょう。よくローカルの週末に登場する人物はこんな風貌の人です。

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確実に心はひらいていません。彼らは非言語コミュニケーションにおいてマスクで開放度を表現しているのです。当然「言語」でのコミュニケーションも難しいと判断されます。基本的に見た目がどんなに怖いとしても非言語のメッセージから推測すれば、相手の心が自然と見えてくるのです。

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こんなに怖いですが、彼のシャツを見て下さい。睨みつけているように見えますが、実はこの状態は完全に心を解放しています。笑顔で近付いていき熱い抱擁をしたとしても問題ないと考えられます。ただし自己責任でお願いします。





座頭魄市orejiru at 12:10│コメント(0)トラックバック(0)映画  | このエントリーをはてなブックマークに追加

2011年01月22日

読書録③冊目-世界が絶賛する「メイド・バイ・ジャパン」
日本のモノつくりはメイド・イン・ジャパン(日本で作られた)からメイド・バイ・ジャパン(日本人が作った)へと変わりつつある。その世界中で絶賛されているモノの話から、今後の日本のあり方を提唱する本だ。グローバル社会で今後日本はどのように勝負すればいいのか。そのヒントが読んでみて見えた気がする。


世界が絶賛する「メイド・バイ・ジャパン」 (ソフトバンク新書)
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話題は日本のアニメからはじまり、ゲーム、家電製品、自動車産業など幅広く話を広げていくが、どのジャンルにおいても著者はサブカル畑を耕す農家らしく、定期的にサブカルへ引きづりこむ。アニメの話も「寺ズッキュン」の話へ、ゲームは「エロゲ」へ、家電は「ツンデレテレビ」へ、自動車は「痛車」へと。僕はサブカル好きの友人が周りに数名いるのと、2chまとめサイトなどでアクセスが多いものは毎日巡回し免疫が出来ているおかげで面白く読み進めたが、サブカルに免疫がない人にとっては【世界が絶賛する】という本題へのアプローチが多少回りくどく感じるのではと何度と危惧した。しかし終盤は見事に【世界が絶賛する日本】へとまとめあげていて本を閉じたあと拍手を送りたくなっていた。

上記にあげた一見して本当に世界が絶賛しているのか疑問に感じるモノたちはひとまず置いておき(気になった人は是非本書を手に取ってみてほしい)、僕ら日本人のストレングス(強み)とは何だろうか。それは当然世代によって違うので、僕の世代、いわゆるロストジェネレーション世代にとっての強みを考えてみた場合、やはり僕らの強みは“遊び心”ではないだろうか。昔から日本人の遊び心は凄まじいものがあったが(昔の人の遊び心については後述)、第二次世界大戦、そして焼け野原となった日本を立て直し、高度経済成長期を迎えた日本は休む暇なくひたすら真面目に仕事をしてきた。遊んでる暇なんてなかっただろう。僕らはそんな先輩方のおかげで産まれた頃から環境には恵まれ、僕らはよく遊んだ。鬼ごっこや缶けりから始まり、ビックリマンシールで私欲を満たし、スーパーファミコンに熱狂した。ゲームボーイの登場で街のどこにいてもゲームを楽しめるようになり、高校にあがる頃にはポケベル、ほどなく携帯電話(PHS)を皆が持つようになっていた。高校を卒業する頃にはついにインターネットもテレホーダイの登場で夜間はずっと接続出来るようになる。僕らはその異常なスピードで豊かになっていく世界を肌で感じ、友人とのコミュニケーションにそれらを役立てた。そのコミュニケーションの輪の中で新しい遊びは幾度となく誕生し、飽きてはまた生み、繰り返した。今まさにtwitterで話題の中心となるフェイスブックなどのSNSも、僕ら“遊び心”を強みにしたロストジェネレーション世代がプログラムで遊び、現在の状態へ昇華させたのだろう。

日本のモノ作りは本書でも述べているように変わりつつある。
豊かになった日本が今後、どのように世界にアピールしていくか。それは僕らロストジェネレーション世代の“遊び心”にかかっているのだと確信した。これだけ豊かな日本国であるのにも関わらず、増していく閉塞感。突破出来ないのは皮肉にもここまで豊かにしてきた先人達ではないか。勤勉に取り組んできて完成させた日本のモノに対し、勤勉に取り組んだからこそそれにすがろうとする姿は見ていて痛々しくもある。もう十分ではないか。あとは僕らの世代に任せてほしい。その椅子を降りてもいいじゃないか。潔くそうしてくれれば僕らの世代はきっと、世界相手に遊びで魅了させる事が出来るはずだ。その椅子は決して汚さんよ。敬意を持って遊ぶから。

最後に日本人は昔から“遊び心”が凄まじかった件
東芝の創業者田中久重が1840年頃に作成した文字書き人形。有名なからくり人形で「寿」「松」「竹」「梅」の4文字を書く。そして面白いのはこの動きを作るのに全部で12本の糸を全身に張り巡らしているのですが文字を書く動きに使っているのはこのうち3本だけなのだそう。残り9本は顔の動きに使っている。下の動画を見てもらえば分かるが、顔の動き素晴らしい。この本来文字を書かせるという動きで十分なはずなのに顔の動きに文字を書くという行為以上に力を注いでしまった。“遊び心”の成せる業。




もう一本。弓曵き童子。あいにく新しい弓曵き童子の動画しか見当たらないのはご勘弁。ちなみにこの弓曵き童子の“遊び心”は4本のうち1本は外してしまう仕様。仕掛けは単純で1本だけ重しをつけて外れるようにしてある。恐らくアメリカ人が作ればこの考えはないだろう。日本人の粋な“遊び心”の成せる業ではないだろうか。



さあ、遊ぼ!





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2011年01月18日

海外旅行に出掛けるとよく目の前に“未知との遭遇”がある。外見や匂いで想像がつく物やメニューの名前から察しがつくものがほとんどだが、それらに混ざり“未知の食べ物”が紛れている。もちろん自ら望んで想像もつかない物を選ぶのが旅の楽しみ方のひとつでもある。口に入れる前に視覚から味を想像する。鼻に近づけ嗅覚から味を想像する。それでも尚予想もつかない料理、それを口に入れる瞬間が僕は好きだ。その多くは、自らの知識と経験から計算したその味の方向性を悪びれる事なく裏切ってくれる。それも往々にマイナス方向へと
しかし極稀に想像もしなかった美味を口の中に広げてくれる料理に出会える事がある。その外見、匂いからはおよそ想像もつかない味に出会うその瞬間こそ、本物の感動だと思う

今回紹介する映画はまさに“未知との遭遇”
僕が映画を見続けるのも極稀に生まれるこのような作品達と出会うためだ


あるいは映画という枠に収める事こそ間違いかもしれない。
あるいは物語という枠に収める事こそ間違いかもしれない。

ラース・フォン・トリアー監督作品の評価が大きく分かれるのは“宗教観”の問題がある。「奇跡の海」も「ダンサー・イン・ザ・ダーク」も“慈愛と赦し”が描かれている。今作もまた“りんご”や“鐘”を小道具にあしらい、さりげなく“宗教観”を取り入れている。しかし今作において最も注目すべき点は“宗教観”ではない。今作品は米国の民主主義批判であり、量産型ハリウッド映画を含めたアメリカ主義へのアンチテーゼなのだ。

以下はあらすじ。

ロッキー山脈の麓に孤立する村ドッグヴィル。ある日この村の近く、ジョージタウンの方向から銃声が響いた。その直後、村人の青年トムは助けを請う美しい女性グレースと出会う。間もなく追っ手のギャングたちが現われるも、すでに彼女を隠し、その場を切り抜けるトム。彼は翌日、村人たちにグレースをかくまうことを提案した。そして、“2週間で彼女が村人全員に気に入られること”を条件に提案が受け入れられる。そうしてグレースは、トムの計画に従って肉体労働を始めることになるのだが…。

グレースに対しトムがドッグヴィルで行った政策は村人全員に参加してもらっての多数決。一見小さな村で行われた民主主義に見えるが、トムや村人の行動に注目して頂きたい。また、ドッグヴィル内で大統領の役目を担っているトムの内面にも注目だ。終盤の民主主義が生んだ制裁の描き方に言葉を失う。衝撃の結末はその目で確かめてほしい。ラース・フォン・トリアー監督がアメリカ全土に投げ掛けたメッセージに言葉を失うだろう。

白線で簡略化されたセット内(犬までもが白線でDOGと書かれている)で淡々と進んでゆくストーリーに始めは違和感を感じつつ、結末を迎える頃には眩暈がするほどの圧倒的世界観と、人の内面に潜むおぞましい心理描写にあなたはその場を動けないだろう。一歩でも動けばそこから崩れてしまいそうなほどに。
近年のハリウッド映画は撮影技術の発展により映像化不可能と言われた作品を次々と世に送り出し続けている。その映像美ばかりが取沙汰され、やがて私達はとても重要なものを見落としている事に気が付く。
ドッグヴィルでは視覚で得られる情報の一切が排除されている。繰り返しになるが犬の鳴き声が聞こえようともそこに映されるのは犬の形を縁取った白線のみなのだ。視覚の情報を遮断される事により、私達は一度は困惑をする。そしてやっと本当の意味で“観る”という行為をするのだ。必ずしも視覚の情報が真実とは限らない。僕達は見たつもりになっていたと知る。思考停止していた自分のその姿を観るのだ。

退廃的な映画界、そして米国民主主義に対し真正面から挑んだラース・フォン・トリアー監督は、この「ドッグヴィル」という新定義を放り込んだ。やがてその波紋は大きな波と変わるだろう。

ドッグヴィルは、21世紀のヌーヴェルバーグのはじまりなのだ。
[2005.4.26]

追記
上記の記事を書いてもう5年の月日が経って、現在の映画状況は更なる映像技術の進化を遂げました。この頃はまさか映画が3Dになるとは思ってもいませんでした。ハリウッド映画に対する僕の気持ちも変化があります。僕は60年代ヨーロッパから始まったヌーヴェルバーグ、その波を受け大きく変化し始めた70年代アメリカ映画が今でも好きです。けれどもハリウッドが映画の聖地であるためには、最先端の映像技術で僕達をいつも驚かせてくれるという役割もあるのだと思います。路頭に迷いつつあったハリウッドも役割を思い出しはじめてる気がして今はハリウッドに期待しています。でも一貫して僕の映画への気持ちは変わることはありません。果てのない映像技術の躍進に一時胸躍ろうとも、僕が映画を通して覗きたいのは人間の決して普段は表に出さない部分です。恐らく矛盾した考えですが、僕が求めているのはドキュメンタリーであり演劇であるもの、そんな矛盾したようなものを覗きたい。
今ではUstreamやYoutube、日本ではニコニコ動画などが普及し、より多くの人が映像をアウトプットする世の中になりました。ハリウッドはこのまま最先端を走り続けるしか道はないでしょう。映像は確実に二極化しています。僕が求めているものを生み出すのはまず間違いなく個人が発するUstream、Youtube、ニコニコ動画から誕生します。
5年前、当時の記事で[ドッグヴィルは、21世紀のヌーヴェルバーグのはじまりなのだ]と締めくくりましたが訂正しておきます。
本当の21世紀ヌーヴェルバーグのはじまりは
無名の人が投げたちいさな小石からはじまる。



座頭魄市orejiru at 19:47│コメント(0)トラックバック(0)映画  | このエントリーをはてなブックマークに追加
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