2015年06月15日
2015年06月02日
弁当技術を向上したく、ケンタロウの弁当レシピ本を購入するため書店へ。
パラパラ中身を読んでみると僕が思ってたような内容ではなかった。ケンタロウの作るアブラ多め味濃い目の、これぞ「男子ごはん」ってレシピは好きなんだけど、僕が漠然とイメージしている作りたい弁当とは少し違っていた。その日は時間がなかったので後でじっくり検討することにした。
レシピ本を求めて書店に入ったのに、結局購入した本はこちらの本。
料理の分析ではなく、料理研究家の分析。
ありがちに見えて今までなかった面白い視点。
そして実際のところ、めっちゃ面白かった。
料理研究家を分析することで、家庭料理の変遷を読み解いていく。そこから社会の変遷が見えてきて、さらには社会のなかでの女性の生き方が見えてくる。
これからは女性の時代なんだよね。
そして支える側に立つのは男たちの番。
ケンタロウ、栗原心平、コウケンテツ(もこみちは入れたほうがいいのか悩みどころ)。これからどんな料理研究家が注目されるのか楽しみだ。遊び心あふれる自由な発想の男性料理研究家がきっと現れて、僕らを虜にするに違いない。
まだ発売されて間もないからってのもあるだろうけど、amazonではまだレビューなし。あまり注目度は高くないのかな?埋もれてほしくない良本ですよ。オススメです。
パラパラ中身を読んでみると僕が思ってたような内容ではなかった。ケンタロウの作るアブラ多め味濃い目の、これぞ「男子ごはん」ってレシピは好きなんだけど、僕が漠然とイメージしている作りたい弁当とは少し違っていた。その日は時間がなかったので後でじっくり検討することにした。
レシピ本を求めて書店に入ったのに、結局購入した本はこちらの本。
料理の分析ではなく、料理研究家の分析。
ありがちに見えて今までなかった面白い視点。
そして実際のところ、めっちゃ面白かった。
料理研究家を分析することで、家庭料理の変遷を読み解いていく。そこから社会の変遷が見えてきて、さらには社会のなかでの女性の生き方が見えてくる。
これからは女性の時代なんだよね。
そして支える側に立つのは男たちの番。
ケンタロウ、栗原心平、コウケンテツ(もこみちは入れたほうがいいのか悩みどころ)。これからどんな料理研究家が注目されるのか楽しみだ。遊び心あふれる自由な発想の男性料理研究家がきっと現れて、僕らを虜にするに違いない。
まだ発売されて間もないからってのもあるだろうけど、amazonではまだレビューなし。あまり注目度は高くないのかな?埋もれてほしくない良本ですよ。オススメです。
2015年05月27日
2015年05月26日
2015年05月25日
【あらすじ】
組長を引退したものの、ヤクザの性分が消えないために普通の老人として生きていけない龍三(藤竜也)。そんな毎日にいら立ちを募らせる中、彼はオレオレ詐欺にだまされてしまう。人々をだます若い連中を許すわけにいかないと、龍三はかつての子分たちを召集して世直しをすることに。年齢に関係なくまだまだいけるとオレオレ詐欺のグループを倒しに向かう彼らだが、行く先々でとんでもない騒動を引き起こしていく。
【感想】
1ヶ月ぶりの映画館。
「寄生獣 完結編」を観ようと映画館に入ったつもりが、心変わりもあって「龍三と七人の子分たち」のスクリーンへ。
おもしろかった。
けれど正直なところ、映画館で観なくてもよかったかなと少し後悔もあった。声を出して笑ったシーンがいくつもあったし、何も考えずにぼけーっと映像楽しむ映画ってのもなかなかいいもんだ。娯楽作品として良く出来てる映画。
でも、この映画に限っては「お茶の間」で家族揃って、手仕事をしながらだったり、携帯をいじりながらだったり、各々が観てたり観てなかったりする中で楽しむのが丁度いい塩梅だと思う。僕は風呂あがりに缶ビールを片手に茶の間に顔を出したら映画が始まっていて、途中からだけどなんだか面白そうなので、ゴロンと横になって観始めたら最後まで観ちゃった、くらいの「金曜ロードショー感」が漂う映画だと思った。決してけなしているわけではなくて。かといって誉めちぎってるわけでもないけど。
北野武映画に求めてしまうものって、どうしてもハードルが高くなってしまうんだけど、本来「北野武」という人は、こういう映画を作るのが似合う人なんだろうなぁとも思う。監督自身がこれまでで一番楽しんだ映画だったのかもしれないな。
2015年05月09日
10年代に入ってから「草食系男子」の進化型として「草育系男子」だとか「植物系男子」「ガーデニング男子」だとか、植物を育てる男子をまとめて総称する単語がちらほら出始めた。それは誰かが故意に蒔いたものなのか、あるいは自然に芽吹いたものなのかは分からないが、まだ地にしっかりと根を張るまでには至っていないようにみえる。もっとも、上質な暮らしを求めるサードウェーブ系がボタニカルをその暮らしに取り入れていくのは時間の問題な気はするのだが。
遡ってみると、いとうせいこうが00年代に植物のある暮らしを提唱した本を出版している。庭のない都会のマンションでの暮らしを選び、小さなベランダで植物を育てる「ベランダー」のすすめだ。
植物を育てる男子が増殖している原因が、誰かが故意に蒔いた種だったとしたら、その種を蒔いたのは、いとうせいこうだったのではないか。であるならば、「草食系男子」進化型は「ボタニカル系男子」と呼ぶのが適切かもしれない。
◆
一昨年に肺ガンが見つかり片方の肺を切除した父親。今年に入ってもう片方の肺に転移している可能性が出てきたという連絡を受けて、GWに帰省した。
バッグにヘッセの一冊を詰め込んで。
◆
実家の庭には、じつに多くの植物が根付いている。100種まで数えてみたが、その時点でまだ庭のごく一部だったため、それ以上を数えるのを諦めた。
農林水産省に勤めた(現在は定年を迎えて退職した)父の庭はおもしろい。何がおもしろいかというと、園芸店には出回ることのない植物、具体的には山だけに自生する植物などが庭に平然と根付いているのだ。庭で育てることは出来ないとされる高山植物すらも、みずみずしいその姿を見せてくれる。まるでそこが生家であるかのように。ともすると傲慢ともとれる態度で。
多種多様な植物たちは、多種多様な虫たちをも誘う。たくさんの虫や蝶や蜂が、そして鳥たちまでもが庭に住み着いている。
◆
岩手でホタルを鑑賞できるスポットはたくさんあるが、実家の地域ではまずお目にかかれない。少し足を伸ばせば見つけられなくもない場所とはいえ、子どもの頃(20年以上も前)と比べるとホタルの数は激減している。小学生の頃はホタルをたくさん捕まえて、蚊帳の中に放ってから布団へ潜り込み、ホタルの発光を星空に見立て、眠気を誘う光の明滅のリズムに身を委ねつつ眠りについた夏の日々。今ではそんな体験も難しく、もう水が昔よりもきれいではなくなってしまった現実に、少し寂しく思っていた。
◆
昨年のことだ。
父が嬉しそうに言った。
「庭にホタルが来るようになったよ」
棲息条件の厳しいホタルが、うちの庭を選んで棲みついたという。僕はあの頃を懐かしみ、また息子にも同じ体験をしてもらおうと思い立ち、夏休みに帰省した。その晩、息子と一緒にホタルを数匹捕まえて、蚊帳の中に放ってから妻と息子と一緒に布団へ潜り込み、ホタルの発光を星空に見立て、光の明滅のリズムを共に楽しんだ。
息子は、あの頃の僕と同じように(そして恐らくは同じような眼差しだったのだろう)、ホタルの光に誘われて眠りについた。僕はそれを見届けたあと(そして恐らくは父がそうしていたように)ホタルを蚊帳から出して庭に還した。役目を果たしてくれてありがとう。不本意な役目を押し付けられたホタルは、その身に起こった天変地異に目を回したのか訝しげにその場を離れようとはしなかったものの、茂みの奥のほうから聞こえてくる蛙の鳴き声に安心したのか、その声のする方へと意を決して飛んでいった。
僕は息子に同じ体験をさせてあげられたことを大いに喜んだ。そして同時に、父がいかに偉大なことを成し遂げたのかを思い知った。
植物を育てるとは、たぶん、そういうことなのだ。
廻る地球の上で。季節が巡るように、父から子に。
◆
10ケ月ぶりの家に着いて、庭をみる。
庭の草木花たちは元気そうだ。
つまり、まだ父は元気なのだ。
荷物を家の中に全ていれて、湯を沸かしてお世辞にも上質とは程遠いコーヒーを飲む。10ケ月振りに顔を見せた孫の成長ぶりを、父も母も満足そうに見つめている。その光景をこれまた満足そうに妻が眺めている。息子は家からわざわざ持ってきた自慢のおもちゃを見せびらかしている。
バッグから出掛けに放り込んだ一冊を取り出す。
庭に出る。庭岩に定着した苔は年月をかけゆっくりと領土を拡げつづけ、いまでは尻込みしてしまうほどの威厳を放っている。庭の湿度が一定に保たれているのだ。西日が強く差す東京の我が家では作り出せない景観だ。
庭石に腰掛け、本をひらく。
木漏れ日が一文を照らす。
そして本のなかに、答えをみつける。
人生における美しきワンシーンは、ふっと力を抜いた瞬間にそっと訪れる。時があれこれ洗い流してくれる。
◆
父の庭からクジャクシダを1株もらって東京に連れて帰ることにした。園芸店でよく見かけるアジアンタムの別名なのだが、父の庭にあるクジャクシダは店に出回る種ではないようだ。葉形に野生的な力強さが宿っている。
父は駄温鉢にクジャクシダを植え替えて僕に渡してくれた。僕は父に聞いた。
「この鉢、ペンキでペイントして塗り替えてもいい?」
「見栄えが悪い鉢だけどクジャクシダにとっては一番適した環境だから塗ったらいけないよ」
見栄えばかりを気にして、その実なんにも見ちゃいなかったことに気がついて、思わずふっと笑ってしまった。
うん、別に悪くないじゃないか。
植物を育てる男子のことをなんて呼ぶのかも、もうどうでもいいことだ。
後部座席に妻と息子を乗せて、助手席にクジャクシダを乗せて僕はアクセルを踏んだ。
クジャクシダはこれからの環境に不安を覚えているかのように、ゆらゆらと葉を揺らした。
遡ってみると、いとうせいこうが00年代に植物のある暮らしを提唱した本を出版している。庭のない都会のマンションでの暮らしを選び、小さなベランダで植物を育てる「ベランダー」のすすめだ。
植物を育てる男子が増殖している原因が、誰かが故意に蒔いた種だったとしたら、その種を蒔いたのは、いとうせいこうだったのではないか。であるならば、「草食系男子」進化型は「ボタニカル系男子」と呼ぶのが適切かもしれない。
◆
一昨年に肺ガンが見つかり片方の肺を切除した父親。今年に入ってもう片方の肺に転移している可能性が出てきたという連絡を受けて、GWに帰省した。
バッグにヘッセの一冊を詰め込んで。
◆
実家の庭には、じつに多くの植物が根付いている。100種まで数えてみたが、その時点でまだ庭のごく一部だったため、それ以上を数えるのを諦めた。
農林水産省に勤めた(現在は定年を迎えて退職した)父の庭はおもしろい。何がおもしろいかというと、園芸店には出回ることのない植物、具体的には山だけに自生する植物などが庭に平然と根付いているのだ。庭で育てることは出来ないとされる高山植物すらも、みずみずしいその姿を見せてくれる。まるでそこが生家であるかのように。ともすると傲慢ともとれる態度で。
多種多様な植物たちは、多種多様な虫たちをも誘う。たくさんの虫や蝶や蜂が、そして鳥たちまでもが庭に住み着いている。
◆
岩手でホタルを鑑賞できるスポットはたくさんあるが、実家の地域ではまずお目にかかれない。少し足を伸ばせば見つけられなくもない場所とはいえ、子どもの頃(20年以上も前)と比べるとホタルの数は激減している。小学生の頃はホタルをたくさん捕まえて、蚊帳の中に放ってから布団へ潜り込み、ホタルの発光を星空に見立て、眠気を誘う光の明滅のリズムに身を委ねつつ眠りについた夏の日々。今ではそんな体験も難しく、もう水が昔よりもきれいではなくなってしまった現実に、少し寂しく思っていた。
◆
昨年のことだ。
父が嬉しそうに言った。
「庭にホタルが来るようになったよ」
棲息条件の厳しいホタルが、うちの庭を選んで棲みついたという。僕はあの頃を懐かしみ、また息子にも同じ体験をしてもらおうと思い立ち、夏休みに帰省した。その晩、息子と一緒にホタルを数匹捕まえて、蚊帳の中に放ってから妻と息子と一緒に布団へ潜り込み、ホタルの発光を星空に見立て、光の明滅のリズムを共に楽しんだ。
息子は、あの頃の僕と同じように(そして恐らくは同じような眼差しだったのだろう)、ホタルの光に誘われて眠りについた。僕はそれを見届けたあと(そして恐らくは父がそうしていたように)ホタルを蚊帳から出して庭に還した。役目を果たしてくれてありがとう。不本意な役目を押し付けられたホタルは、その身に起こった天変地異に目を回したのか訝しげにその場を離れようとはしなかったものの、茂みの奥のほうから聞こえてくる蛙の鳴き声に安心したのか、その声のする方へと意を決して飛んでいった。
僕は息子に同じ体験をさせてあげられたことを大いに喜んだ。そして同時に、父がいかに偉大なことを成し遂げたのかを思い知った。
植物を育てるとは、たぶん、そういうことなのだ。
廻る地球の上で。季節が巡るように、父から子に。
◆
10ケ月ぶりの家に着いて、庭をみる。
庭の草木花たちは元気そうだ。
つまり、まだ父は元気なのだ。
荷物を家の中に全ていれて、湯を沸かしてお世辞にも上質とは程遠いコーヒーを飲む。10ケ月振りに顔を見せた孫の成長ぶりを、父も母も満足そうに見つめている。その光景をこれまた満足そうに妻が眺めている。息子は家からわざわざ持ってきた自慢のおもちゃを見せびらかしている。
バッグから出掛けに放り込んだ一冊を取り出す。
庭に出る。庭岩に定着した苔は年月をかけゆっくりと領土を拡げつづけ、いまでは尻込みしてしまうほどの威厳を放っている。庭の湿度が一定に保たれているのだ。西日が強く差す東京の我が家では作り出せない景観だ。
庭石に腰掛け、本をひらく。
木漏れ日が一文を照らす。
そして本のなかに、答えをみつける。
人生における美しきワンシーンは、ふっと力を抜いた瞬間にそっと訪れる。時があれこれ洗い流してくれる。
◆
父の庭からクジャクシダを1株もらって東京に連れて帰ることにした。園芸店でよく見かけるアジアンタムの別名なのだが、父の庭にあるクジャクシダは店に出回る種ではないようだ。葉形に野生的な力強さが宿っている。
父は駄温鉢にクジャクシダを植え替えて僕に渡してくれた。僕は父に聞いた。
「この鉢、ペンキでペイントして塗り替えてもいい?」
「見栄えが悪い鉢だけどクジャクシダにとっては一番適した環境だから塗ったらいけないよ」
見栄えばかりを気にして、その実なんにも見ちゃいなかったことに気がついて、思わずふっと笑ってしまった。
うん、別に悪くないじゃないか。
植物を育てる男子のことをなんて呼ぶのかも、もうどうでもいいことだ。
後部座席に妻と息子を乗せて、助手席にクジャクシダを乗せて僕はアクセルを踏んだ。
クジャクシダはこれからの環境に不安を覚えているかのように、ゆらゆらと葉を揺らした。
2015年05月07日
ここ数ヶ月は、1日の終わりに期間限定サイトの「村上さんのところ」を読むのが楽しみのひとつでした。
4月30日をもって更新は終了してしまい、ささやかな楽しみのひとつを失ってしまった僕は、あと少しでいいから村上春樹の文章を読みたいと思い、未読だった「走ることについて語るときに僕の語ること」を手に取ったのです。
これはちょうど10ケ月前から走りはじめた僕にとっては、あまりにも適切なタイミングと、あまりにも適切な文章でした。たかだか10ケ月しか走り続けていないランナーの言葉としては大変おこがましいかもしれないけれど、村上春樹に共感を覚え、かつ身近に感じるという体験にとても満足しました。
走り始める前に読むよりも、走り続けている道半ばで、給水のように手に取ってほしい本。
走り始める前に読むなら断然これ。
そういえば僕は“思いのほか”村上春樹の作品を読んでいると思っていたのだけれど、長編小説で未読なのが4作品「ねじまき鳥クロニクル」「アフターダーク」「1Q84」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」と“思いのほか”残っているし、短編小説では短編集の「レキシントンの幽霊」「東京奇譚集」しか読んでいない。翻訳にも手を伸ばせば僕にはまだたくさんの楽しみが残されていることになります。嬉しいかぎり。
読んだつもりで読んでいなかった「ねじまき鳥クロニクル」(アフターダーク以降を読んでいないと勘違いしていました)。まずはそこから始めようと買ってきたんだけど、期間限定サイト「村上さんのところ」で2回名前が挙がっていた村上春樹翻訳のノンフィクション「心臓をつらぬかれて」も一緒に購入したので、ノンフィクション好きとしてはこちらから楽しもうと思ってます。